批評とは
小林秀雄の「考えるヒント」、他の本に浮気したりもしつつ、まだ全部読んでないのですが、「批評」というタイトルの章があり、良い定義というか、良い考えだなと思ったので、後でまた噛み締められるよう、メモしておきます。他にも、序盤の、”プラトンの「国家」”という章など、メモをとっておきたくなるようなところがたくさんあった。彼が書く文章は、とても知的で、何処となく、やさしい人間性が溢れ出ているところがいいと思った。
自分の仕事の具体例を顧ると、批評文としてよく書かれているものは、皆他人への賛辞であって、他人への悪口で文を成したものではない事に、はっきりと気付く。そこから率直に発言してみると、批評とは人をほめる特殊の技術だ、と言えそうだ。人をけなすのは批評家の持つ一技術ですらなく、批評精神に全く反する精神的態度である、と言えそうだ。
中略
批評文を書いた経験のある人たちならだれでも、悪口を言う退屈を、非難否定の働きの非生産性を、よく承知しているはずなのだ。承知していながら、一向やめないのは、自分の主張というものがあるからだろう。主張するためには、非難もやむを得ない、というわけだろう。文学界でも、論戦が相変らず盛んだが、大体において、非難的主張あるいは主張的非難の形を取っているのが普通である。そういうものが、みな無意味だと言うのではないが、論戦の盛行は、必ずしも批評精神の旺盛を証するものではない。むしろその混乱を証する、という点に注意したいまでだ。
中略
批評は、非難でも主張でもないが、また決して学問でも研究でもないだろう。それは、むしろ生活的教養に属するものだ。
考えるヒント (小林秀雄) P200
okabes — 2007/10/29 08:00
生活的教養に属するというのは上手い表現だと思う。なかなか据わりのわるい語が「批評」だから。
そもそも作品の存在を認めなければ批評は矛盾する。だから非難や主張とちがうことは自明である。書く気になって考えればすぐわかるが、作品の存在を認めない非難や主張を紙に書き付けて他人に読ませる必要がどこにあるのか?
と、まあそんなことを考えれば批評が「生活的教養」の範疇だというのが妥当な気がする。ぼくも一種の教養的な読み物で「あるべき」だと思っている。
ところでその小林だけど、そもそも批評は作品の存在を前提しているわけだから、作品をまるで存在しないもののように無視することは起こりうるわけで、そういう「無視」はしてたように記憶している。
書く必要のないことを書く必要があったのは小林自身が批評ばかりしていたからで、彼が作品のひとつでも書いていたら、そんないいわけをする必要はなかったように思うのだけど……専門じゃない立場から文学や小林をみてると、そんな風に見えてたのを思いだした。
汝の道をゆけ、そして人々の語るにまかせよ
mio — 2007/10/29 11:43
彼自身はその「批評」というタイトルの文章の中で、自分がやってきたこと、書いてきたものがたまたま世の中で言うところの批評というジャンルだった、みたいなことを言っていました。
発見のある批評は、それだけで作品になっていると思います。「作品」を前提としなくても、彼の書いたものには「自然」について書いたもの、「人」について書いたものなんかもあるようです。
そういったちょっとした文章は「作品」というには短すぎるのかもしれませんし、書いていることもちょっとしたことなのかもしれませんが、それはそれで読み応えのあるものでした。観察眼というか、分析力というか、何かを見つけてくる嗅覚というか、そういうものが優れた人だったんだと思います。
>汝の道をゆけ、そして人々の語るにまかせよ
ダンテの言葉だったんですね。
良い言葉を、ありがとうございます。
けん爺 — 2007/10/31 01:12
ほほう!!
mio — 2007/10/31 05:30
うほほ!!
okabes — 2007/11/1 14:01
バレたか……
マルクスの「資本論」の序文にも引いてあると聞いた。
mio — 2007/11/1 14:53
>バレたか……
インターネットのおかげ様で(笑