団塊と格差社会
大学生のころ、大学の教授なんかで、「最近の若者は、元気がない、やる気がない、勢いがない」みたいなことを言う人たちが良くいた。そういう発言を聞くと、学生ながらに、腹が立った。そういうのもあってか、「団塊の世代」だとか「格差」だとか、そういうテーマに興味を持つようになった。自分の親の世代や、自分の世代を教育してきた人間達が何をしてきたのか、が気になる。今は、別にもう腹が立つとかはないけど。
今、山田昌弘氏の「希望格差社会」という本を読んでいる。
まだ、全部読んでないのだが、全部読んでから、まとめる必要もないかなと思い、読みながらメモを取っていくことにした。
(緊張型頭痛はだいぶおさまりました。まだ、完璧じゃないっぽいけど。)
■高度経済成長期のまとめ
高度経済成長期の生活には、
①職業領域においては、「企業の男性雇用の安定と収入の増加」
②家族領域においては、「サラリーマン―専業主婦型家族の安定と生活水準の向上」
③教育領域においては、「学校教育の職業振り分け機能の成功と学歴上昇」
という要素があった。
その要素により、生活の安定と向上が保証されていたのである。
中略
経済の高度成長期には、職業、家族、教育の領域は、ローリスクで安定していただけでなく、「成長」していた。仕事に就いていれば収入は伸び、家族を形成すればその生活は豊かになり、子供の学歴は上昇した。つまり、特別なことをしなくても、リスクを冒さなくとも、生活が豊かになったのである。それが、「格差」からくる心理的不満を和らげる効果をもっていた。
中略
経済の高度成長期における生活の安定の秘密は、ただ単に、マクロ的にみた経済成長率が高かったことに求められるのではない。「みんな一緒に豊かな生活を築くことができた」という点が重要なのである。たとえ、平均値としてみた経済成長率が高くても、貧富の差が広がっていると感じられれば、人々の不満感は高まるであろう。
中略
先進諸国では、一九九〇年代前後に、大きな経済・社会の変動が開始されたと言われている。それは、グローバリゼーションによる国際的な競争の激化をもたらし、中間集団を安定化させるコストが増大し、その結果、リスクの普遍化、リスクの個人化をもたらしたのである。
要は、高度経済成長期のころは、皆が「上を向いて」いられたから、その差が気にならなかったし、社会には安全なレールが敷かれていたけど、今はそういった安全なレールがなくなりつつあるという感じでしょうか。この本では、こういった状況を、「リスクの個人化」と呼んでいる。結婚しても離婚する可能性が高くなっている、就職しても必ずしも昇給し続けるわけではない、ある日突然会社がつぶれることもある、明日突然仕事がこなくなる可能性がある、良い大学を出たからといって一流企業に就職できるわけではない、様々なリスクがある、これをすれば安心というのはない。
後は、能力が要求される職業と、要求されない職業(マニュアルに従って働く類のもの)に二極化しつつあって、その差は埋められないものになりつつある。マニュアルに沿って働くものは、一生マニュアルに沿って働くしかなくなるし、収入もほとんどあがることはない。これからの時代は、能力が求められる時代であって、能力があるものとないものの差はどんどん開いていく時代である、といったことは色んな本に書かれているように思う。また、格差というのは子供に遺伝する、と書かれた本も多いように思う。実際そうだなと思うこともある。もし子供に何らかのモチベーションがあるならば、経済的に豊かな親を持つ子供の方が圧倒的に有利だ。
勝ち組、負け組、「結局じゃあ、あんたは誰に勝って、君は誰に負けたんだい?」というのは慰めでしかないのかもしれない。それは、身も蓋もないことだろう。要は生活が安定しているかどうか、安心できる食材で作られたご飯を食べられるか、子供を育てられるだけの収入があるか、親の介護料が払えるか、能力を持つ側と持たない側のどちらにいるか、そういうことなんじゃないか。