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W!O by MIO YASUAKI » 2007 » 8月
団塊と格差社会

団塊と格差社会

2007.08.30 01:41 by mio [ 1,611 views ]

Category : 思考の整理,

大学生のころ、大学の教授なんかで、「最近の若者は、元気がない、やる気がない、勢いがない」みたいなことを言う人たちが良くいた。そういう発言を聞くと、学生ながらに、腹が立った。そういうのもあってか、「団塊の世代」だとか「格差」だとか、そういうテーマに興味を持つようになった。自分の親の世代や、自分の世代を教育してきた人間達が何をしてきたのか、が気になる。今は、別にもう腹が立つとかはないけど。

今、山田昌弘氏の「希望格差社会」という本を読んでいる。
まだ、全部読んでないのだが、全部読んでから、まとめる必要もないかなと思い、読みながらメモを取っていくことにした。
(緊張型頭痛はだいぶおさまりました。まだ、完璧じゃないっぽいけど。)


■高度経済成長期のまとめ

高度経済成長期の生活には、
①職業領域においては、「企業の男性雇用の安定と収入の増加」
②家族領域においては、「サラリーマン―専業主婦型家族の安定と生活水準の向上」
③教育領域においては、「学校教育の職業振り分け機能の成功と学歴上昇」
という要素があった。
その要素により、生活の安定と向上が保証されていたのである。

中略

経済の高度成長期には、職業、家族、教育の領域は、ローリスクで安定していただけでなく、「成長」していた。仕事に就いていれば収入は伸び、家族を形成すればその生活は豊かになり、子供の学歴は上昇した。つまり、特別なことをしなくても、リスクを冒さなくとも、生活が豊かになったのである。それが、「格差」からくる心理的不満を和らげる効果をもっていた。

中略

経済の高度成長期における生活の安定の秘密は、ただ単に、マクロ的にみた経済成長率が高かったことに求められるのではない。「みんな一緒に豊かな生活を築くことができた」という点が重要なのである。たとえ、平均値としてみた経済成長率が高くても、貧富の差が広がっていると感じられれば、人々の不満感は高まるであろう。

中略

先進諸国では、一九九〇年代前後に、大きな経済・社会の変動が開始されたと言われている。それは、グローバリゼーションによる国際的な競争の激化をもたらし、中間集団を安定化させるコストが増大し、その結果、リスクの普遍化、リスクの個人化をもたらしたのである。


要は、高度経済成長期のころは、皆が「上を向いて」いられたから、その差が気にならなかったし、社会には安全なレールが敷かれていたけど、今はそういった安全なレールがなくなりつつあるという感じでしょうか。この本では、こういった状況を、「リスクの個人化」と呼んでいる。結婚しても離婚する可能性が高くなっている、就職しても必ずしも昇給し続けるわけではない、ある日突然会社がつぶれることもある、明日突然仕事がこなくなる可能性がある、良い大学を出たからといって一流企業に就職できるわけではない、様々なリスクがある、これをすれば安心というのはない。

後は、能力が要求される職業と、要求されない職業(マニュアルに従って働く類のもの)に二極化しつつあって、その差は埋められないものになりつつある。マニュアルに沿って働くものは、一生マニュアルに沿って働くしかなくなるし、収入もほとんどあがることはない。これからの時代は、能力が求められる時代であって、能力があるものとないものの差はどんどん開いていく時代である、といったことは色んな本に書かれているように思う。また、格差というのは子供に遺伝する、と書かれた本も多いように思う。実際そうだなと思うこともある。もし子供に何らかのモチベーションがあるならば、経済的に豊かな親を持つ子供の方が圧倒的に有利だ。

勝ち組、負け組、「結局じゃあ、あんたは誰に勝って、君は誰に負けたんだい?」というのは慰めでしかないのかもしれない。それは、身も蓋もないことだろう。要は生活が安定しているかどうか、安心できる食材で作られたご飯を食べられるか、子供を育てられるだけの収入があるか、親の介護料が払えるか、能力を持つ側と持たない側のどちらにいるか、そういうことなんじゃないか。

緊張型頭痛と椅子

緊張型頭痛と椅子

2007.08.22 12:21 by mio [ 3,969 views ]

Category : モノ, 日記的なもの

マウイチェア


7月末に緊張型頭痛というのになってしまった。別に、全然「痛く」はないのだが、後頭部の筋肉がピクピクする感じがとても気持ち悪い。僕の場合は、読書をするとこの頭痛が酷くなると気づいたので、最近読書をしないことにした。

病気になる度に健康の有難さが分かるが、
今回の病気は風邪みたいに1週間では治らないものなので、
本当に健康になりたいと思うようになった。
ジョギングもするようになった。
マイペースで走るジョンギングは楽しいと思うようになった。

長生きできるようになった現代人の厄年というのは
26歳ぐらいなんじゃないかと最近思う。


これまでの生活を省みるとずっと不規則だったし、7月~8月は、ほとんど仕事してなくて、ほとんど家で読書するかパソコンをいじってて、タバコも辞めたので、ますます椅子に座ってる時間が長くなった時期でもあり、緊張型頭痛になりやすい状態だったんでしょう。ということで、納得している。

最近は読書をやめたおかげか知らないが、だいぶマシになってきた。
パソコンワークしてると少し変なときもあるけど。
読書よりはだいぶマシみたい。
パソコン使ってるときの方が本読むときより焦点距離が長いからだろうか。
早く完璧に治して、思う存分本を読めるようになりたい。


後は、緊張型頭痛防止のためにも、良い椅子を買いたい。

アーロンチェアは、形があまり好みではないんですが、この前ヤマギワで座ったら思った以上に座り心地がよかった。okamuraのコンテッサは思ったより座り心地が良くなかった、ちょっと硬い感じがした。正しい姿勢でマジメに仕事する人向きの椅子な気がした。okamuraだと、コンテッサよりは、バロンチェアの方が座り心地が良い気がする。バロンチェアはこの手の椅子の中では割とリーズナブルだし、座り心地もとても良い。よく仕事を頼んでくれる会社で、この椅子に座って仕事をしますが、僕みたいに姿勢悪い人が、あらゆる悪い姿勢を駆使して仕事をするのに向いていると思う。アルミ製の脚が大好きな僕としては、プラスチック製な感じがちょっと惜しいところです。

今狙ってるのはメダチェアという椅子。
まだ座ったことないけど、
形が美しいと思う。
今度原宿行くことがあれば座ってみたい。

ちなみに一番上にある写真の椅子は、今僕が座っているマウイチェア。やっぱプラスチック製の椅子はケツが痛い。

砂の女

砂の女

2007.08.12 01:48 by mio [ 1,239 views ]

Category :

安部公房の「砂の女」を読んだ。
砂の穴に落ちた男の話。

この本の表現は極めてカッコよかった。
話はあり得ないけど、描写がリアルだ。
スリルがあった。


砂に関する文章が好きだった。
以下一部引用

「砂の不毛は、ふつう考えられているように、単なる乾燥のせいなどではなく、その絶えざる流動によって、いかなる生物をも、一切うけつけようとしない点にあるらしいのだ。年中しがみついていることばかりを強要しつづける、この現実のうっとうしさとくらべて、なんという違いだろう。
 たしかに、砂は、生存には適していない。しかし、定着が、生存にとって、絶対不可欠かどうか。定着に固執しようとするからこそ、あのいとわしい競争もはじまるのではなかろうか?もし、定着をやめて、砂の流動に身をまかせてしまえば、もはや競争もありえないはずである。現に、沙漠にも花が咲き、虫やけものが住んでいる。強い適応能力を利用して、競争圏外にのがれた生き物たちだ。たとえば、彼のハンミョウ属のように・・・・・・
 流動する砂の姿を心に描きながら、彼はときおり、自分自身が流動しはじめているような錯覚にとらわれさえするのだった。」


最初は自分にとって、理解の出来ない、或いは納得のいかない、なじめない環境であっても、そこでの生活がいったん始まると、人はだんだんとそのループの中にとりこまれていく。そして、いつの間にか、その環境に順応し、その環境の中での新たな価値観を持つようになり、そこに新たな幸せを見つけるようになる、そういった人間の性質が描かれていた。と思う。

人によっては、そういった自分の意にそぐわなかった環境の中でも当初の信念を貫き通して別の世界へ、夢見た世界へ行くかもしれないし、その環境に順応して、そこでの幸せを享受するようになるかもしれない。ただ、夢見た世界が想像通りのものとは限らないし、この小説では、どっちが正しいかとか、どっちが幸せかとか、そういうことを問題にしているのではないと思う。

良いとか悪いとか、そういうことでなく、それは性質だ、というところがポイントだ。
安部公房の視点はそういうところにあったのだと思う。
砂の性質、虫の性質、人の性質。
食欲、性欲、睡眠欲、自己実現欲求、酒に、女に、ドーパミン。
謎解きっぽくて面白い。


最近は、
面白い小説を読むのは、
学ぶところが多い新書を読むのと変わらないぐらい、
意味のあることだと思うようになった。
小説の良さを改めて感じるようになった。

可能無限と空白

可能無限と空白

2007.08.06 01:14 by mio [ 1,942 views ]

Category : コトバ

もともと数学用語で、自然数を1,2,3・・・・・と数えていったときに、どんな大きな数(n)を考えてみても、さらに大きな数(n+1)を、可能性としてどこまでも提示できるということ。可能無限は、「もうひとつ増やす余地がある」という意味での「空白」によって支えられている。

茂木健一郎 
フューチャリスト宣言 p156

可能無限と実無限


相変わらず、無、空、空白、余白、空洞、そういったものが気になっている。
本や誰かの言葉を、ブログにピックアップするという行為は、「チョイス」だ。
人が発する言葉には、自分には思いもよらないものが多々ある。
それを拾って食べてみる。
ブログに書いたほうが消化が良いと思う。